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橋本努 講義「経済思想史」北海道大学経済学部 no.1.

毎回講義の最後に提出を求めているB6レポートの紹介です。

 

 

・西村慶人

  (11/27)・何故経済学部に在籍しているのか?

  1主体的な理由が存在するタイプ

  1-1 経済学のための経済学を志す人

  このタイプの人はおそらく極めて少数であろう。将来は学者になるかそこまでの動機づけはなくてしょうがなく全く別な仕事につく化である。

  好きな科目は思想史、歴史、ミクロマクロ、マルケイの言論

  教養時代の読書の影響をまともに受けることで生み出される(と思う)時として「文学部にいけば・・」と後悔することも。

  1-2 何かのために経済学を志す人

  主体的理由を持つ人のほとんどがこのタイプ。将来も銀行員、公務員、メーカーとさまざまだが、その選択を自分の判断に帰属したがる。

  多くは大学入学以前から漠然とした就職へのあこがれを抱き、自分には経済学部以外ないと思っている。好きな科目は政策、経営学、会計などで、理論、思想、歴史には拒絶反応を示すことがある

  2主体的な理由が存在しないタイプ

  おそらく、一般的な経済学部像を形成するのにもっとも貢献しているのがこのタイプの人だろう。要するに「大病から救ってくれた先生にあこがれ医者を志した」とか「弁護士になって弱者を助けたいから法学部」とか、そのような意義をといづらい経済学部のイメージ

   

   ・橋本英治

  (1/7)ポパーは利己主義・エゴイズムは集産主義と結びつくといい、利他主義を主張している。しかし、利他主義もまた集産主義と結びつきやすいと言えるのではないか。利他、博愛主義はその目的を個人に置いたとしても、一人ひとりのできることには限界があるため福祉国家を求めるようになるだろう。福祉国家は個人のためにあると定義し、国民がそう認識したとしてもその存続のためにはやはり国益というものを重視せねばならない。そうなればポパー自身のいうように国益=善という発想も生まれてこよう。さらには、利他主義からこそ大義に身を捧げる個人が生まれるとも言える。

   利己主義も利他主義も、そのどちらかだけで良いということはなく、双方を個人の中でいかに具合よくバランスさせる化ということが重要である。

   利己と利他を対比させたポパーにたいし、ハイエクは個人と社会秩序を対比させて考察している。

  「偽りの個人主義者は、すでに存在している。伝統や習慣を不合理な権力と見なし、個人と国歌の間のルール作りの積み重ねのみが合理的な社会秩序を作ると考えている」とハイエクはいう。利他主義を唱えるパポーも、この「偽りの個人主義者」も一個人を信頼しすぎている。利己主義も偽りの個人主義も、国益を善に還元する危険はあるが、利他主義も「利他であれば善である」という思い込みがあるのではないか。一個人や「アトム」の判断はそれほど信頼できるものではない。利他も集産主義に行き着く可能性は既に示した。そこにはポパーが否定する世界があった。

 

   小島ゼミ 3年 17960028 下出貴志

  

  一般に大学の授業は役に立たない、面白くないと(学生の間では)いわれている。確かに現実の経済は複雑であり、今の学問では完全な分析をするのは難しい。最近ではその複雑な経済に対応するために、(複雑系経済学)といった学問も発達してきている。それでも現実の経済に役立てるのは難しいと思う。自分としては、経済学というのは、それでよいと思う。つまり、研究している内容の一部が現実の経済にあてはまればよく、そのために無駄な部分があったとしても、それは仕方ないことだと思う。

   しかし授業がわかりやすいか、となると話は別である。大学の教授の授業はわかりにくい。なぜかといえば理由は二つある。ひとつは学生のほうが予習不足であるということ。一般的にはこの理由がクローズアップされることが多い。もうひとつは、教官側の準備不足、というのがあげられるとおもう。授業がわかりにくいのはなぜかといえば、体系化されていない、板書が意味不明、説明がたどたどしいなどが上げられる。このようなことは、準備さえしっかりしていれば、何とかなるものである。「そのようなことに時間をかけてはいられない」という教官がいる人は、そう言えるだけの研究をしているのだろうか。研究者である以上、その研究分野である学問に貢献しようとするのはとうぜんである。そのためには後輩を育てる、ということも必要になると思う。だとすれば、そのきっかけとして授業があるという事実からも、もっと授業に力を入れてもよいのではないか。

 

   金井ゼミ 3年 17960158 宮下愛

  

   この経済思想史の講義にはじめて出席し、私は大変驚いた。大学に入学して今まで、このようなディスカッション形式の授業は初体験だったからである。はっきりいって、つまらない教授のつまらない理論の独演を黙って聞いているだけの講義とは明らかに異なり、この思想史の授業は新鮮味があった。そして、今回から始まった「学問の技法」というタイトルの講義内容は非常に興味をそそられるテーマである。レジュメの「はじめに」の部分に書いてあるとおり、大学生は学問の技法などほとんど知らないように思われる。実際私も、このような事柄に対して、深く思考したり、追求するといった行為もしたことはなかった。もう少し早い段階でこういった講義を受けることができたなら、私の大学生活における学問への姿勢もずいぶんとよい方向に変わっていただろうと思うと悔しい思いである。だから講義中、ある人が言っていたように大学一年次にこういう授業が必要なのではないかと思う。特に北大は厳しい受験戦争で勝ち残ったものが多いため、「勉強」は得意なだくせいは多いであろうが、本当の意味での「学問」を行っているものというと、ほんの一握りなのではなかろうか。しかも大学というところは学生の自主性が問われる場だと思う。特に文系学部においては、怠ける気になればどこまでも手を抜けて比較的楽をしても卒業できるシステムのように思われる。あと数年で就職し、社会に出て行くという手前の大学生活の期間は、時間のゆとりも比較的あり、まさに学問をするには最適な場であると思う。もっといえば、今を逃す手はないだろう。しかし私自身、この教養を高めるべき貴重な時間を無駄に過ごしてきた気がしてならない。今まではただ与えられたものだけをこなし、レジュメ9ページにあるような「問題」を抱えたことなどなかったように思う。読書にしても、恥ずかしいほど量的・質的に足りなかったことは自分でも認知している。「読書の仕方」の部分を読むと、「なるほど」と感じるところも多く、今すぐ読書をはじめなければもったいないような気分になった。このレジュメを読むと、多読を勧めている文章が多いと感じた。これは非常に大切なことであろう。私自身は読書をしていて、理解に困る箇所に遭遇すると、その部分にだけ気をとられて、それ以降はすらすら読み勧めていくのが困難になってしまう。このため「多読」とは程遠い読書をしていた。しかし、理解しないでどんどん読み進めていくことには疑問を感じる。「無駄な読書」の効用についてであるが、読書とは理解するために読んでいるのであるから、呼んでいるその瞬間に理解をしていかなければ後になっても理解するのは難しいのではないかと考えたからである。でもこうした私の考えも読書量の絶対的不足状態にある自分であるから、今時点そう思うだけなのかもしれない。普段読書慣れしている人にとっては「無駄な読書」の効用も当てはまるのであろう。とにかく、この「読書の仕方」を読んで納得した部分を参考にこれからはどんどん本を読む必要があると感じた。

 

   佐々木(憲)ゼミ 3年 081085 西村慶人

  

   マルクスの『哲学の貧困』においては、後の『共産党宣言』や『資本論』において展開される唯物間や経済学的な考察のかなりが展開されていて、まだあらわされていないのは剰余価値説ぐらいであろう。だから、この本を論難することはマルクス主義の全体系への批判へとつながりうる。現在の世界を見れば、社会主義が成功していない以上、いくらでも批判することが可能であるのが当然であると思われる。例えば、マルクスは、労賃というのは労働者階級の再生産に必要な最低限に決まるといっているが、資本主義社会の発展で平均利潤率がおおよそ達成されたようになれば、労賃の一定の範囲での引き上げは可能であり、事実そうなっているだろう。これは労働者階級の伸張によるところもあるが、もっと大切なのは保身しようとする資本家の狡猾さによるであろうし、マルクスもこの資本家、つまり権力の側の保身の巧妙さを見落としていたのではないか。

  と、マルクスの考えの部分部分においては批判の余地があるのだが、残念ながらその全体のシステムを明確な根拠で持って論破することは僕はできない。もちろん自分が社会主義を信奉しているのではないのだが、「唯物論的見方をすべし」とか「分業を否定すれば社会を救うことができる」とか。

 

   岡部ゼミ 3年 081058 瀬田宏治郎

  

   「全人格の発展」という考え方に対する検討

  「全人教育」には二つの側面がある。一つ目は、国家内すべての個的なふるまいや、それに伴う知識、つまり広い意味での文化を統合したgeneralistを造ることを目指す。「文化統合的」側面であり、二つ目は各階級の特権化を防ぐことを目指す。「倫理的」側面(文化大革命当時はこちらの意味合いのほうが強かっただろう)である。それぞれの側面は実現されるのだろうか。

   はじめに「文化統合的」側面についてである。「人間存在」の中におけるすべての特殊性、あらゆる専門性からの開放を成し遂げるためには、ある一定の組織を社会的に普遍的なものとし、すべての人にそれをやらせようとするか、どちらかしかない。普通、目指されるのは後者のほうである。しかし、このとき吸収される文化は、人間の文化のすべてではない。なぜなら「公的に」見とめられたものに限られるからである。反社会的な活動やそれに準ずる活動(例えば倫理的に好ましくないもの)はもちろんのこと、まだ公認されるにいたらない。芽生えたばかりの活動も除外される。

   では「公的に」認められた活動ならすべての要素が吸収されるのだろうか。そうではあるまい。なぜなら、認められた活動とは抽象化された活動だからである。人間の活動は一定の形を保ってはいない。たえず変動し、形を変えて行く存在である。それが見とめられたとたんに、最初の生命力が失われる。認められたことで洗練されていく代わりに、抽象化され、人間の手を離れて行く。結局、全人教育で教えられる文化一般は、漂白され味のないものとなってしまう。国家全体を体現する存在になるはずの人間は、国家幻想を体現する存在となる。最初目指していたはずの自己阻害からの脱却はかなわぬものとなる。

   次は「倫理的」側面についてである。階級間での人員の流動化を図ることによって、各階級の権力さや差別意識はなくなるのだろうか。このようなことが行なわれる社会では、構成する人の位置は流動的でも構造においては固定的である。一度構造が決まったら、社会の状況が変わってもそれまでのように機能文化や構造変革は進まないであろう。なぜなら流動化する以上は回る道筋が定式化されていなければ、恣意性がでてきて平等な配置転換ができなくなるからである。階級分化しているからには、それぞれの仕事ないようにも違いがあるはずである。人気が集中する階級もあるだろう。それでも回り方が一定で誰もが従わなければならないのなら、流れが滞らないのかもしれないが、構造が変化した場合は当然コースも変更になるだろう。そうなったとたんに今まで保ってきた微妙なバランスが崩れてしまう。それを保持して行く力がなければならない。このシステムは、静的な社会ではもしかしたら成り立つかもしれないが、動的な社会になったとたんに危ういものとなる。結局、全体を管理する特権的な階級が必要になる。実際、中国には特権的な指導者層が存在するが。

   「文化統合的」側面においても、「倫理的側面」においても目指すところは同じである。つまり、社会の発展によって進んだ分業化を再統合することである。しかし、この目標は理想像と考えるにしても、現実とのギャップは大きすぎる。文化領域の広がりは、人間の能力の限界をはるかに超えるところまで来てしまった。目標としてもつのはいいとしても、現実的な策としては語れないだろう。

 

   小島ゼミ 3年 081071 田松洋行

  

   ウェーバーとマルクスというこの二人の歴史的人物はもう一世紀も前に生きた人物である。にもかかわらず、つい最近まで彼らの学説が経済学の大きなポジションに座りつづけてきた要因は、現在の資本主義社会の様々な問題点というものが彼らが生きていた時代に根ざしていて、さらに、それに与えた彼らの「治療法」や「診断」が、たとえそれが歴史的に誤っていたとしてもこれらの問題点と現在の人間たちが考える上で大きな判断材料と明せきな視点を与えてくれているからだと思う。

   僕自身が今回の講義で一番考えられたことは、プリントでいうと、ウェーバーの合理性への態度とその矛盾についてであった。そもそも哲学的なことは、それをその言葉のまま理解しようと思っても、なかなか頭の中で消化できるものではなく、それを自分のイメージの中で自分の日常なり体験なりに変換されることがその文章と紐解く一番の近道であり、そうすることで、はじめてみにつくものであると思う。要するに、ウェーバーの考えは、僕がイメージしたところによると、間違っているかもしれませんが、まず、人間には個人個人、それぞれ価値観なり気質というものがあり、それをもとに目的を決定し、手段を選ぶところに、人間の主体性における合理性と自由がある。しかし、その手段を選ぶ段階で、彼の尺度の中にあっては、あるいは非常に非合理的な「合理的科学」をえらばなければならないかも知れず、これは責任の問題になってくる。つまり目的を盲目的に追求するあまり、目的を決定したはずの自分の価値観を置き忘れる場合、主体性のある人間とはみなされずに、禁治産者となる。

   例えば、オウム真理教の場合、信者たちは彼ら個人個人の価値観のある一部分の中で、程度の差こそあれ、教祖である麻原に感化された。そこまではよいが、信者たちは感化されたのが自分たちの価値観のある一部分であることに気づかず、やがて、盲目的に信仰するようになり、あたかも自分のイメージしている目的が、麻原を信仰していては、達成できると思うようになり、もともともっていた価値観をどこかに起き忘れ、手段を選ぶ主体性を失ってしまったのだと思う。

   こういう問題の中でウェーバーは「積極的な無信仰」を提示するが、僕にはどうも「積極的に自分を信仰せよ」といっているような気がする。つまり、資本主義社会に対抗しうるのは主体性に基づく自己責任であり、積極的な自己信仰であると言っているように思えてならない。

 

   小林ゼミ 3年 081077 中沢賢太郎

  

   ハイエク、ポパーのいう総体主義は、実は我々の(少なくとも日本人の)いう個人主義に最も近いものではないだろうか。我々は個人個性を重んずる一方で、社会性を重視する。「人間は一人で生きているのではない」、「恥ずかしくて近所を歩けない」などといった言葉(おもに親から発せられる)は、このことを端的に示していると思う。さらに個性を押し通して悪徳商法を行なって成功した人間が社会では認められない、ということは社会性はある次元を超えた個の上位に位置することを示していると私は考える。

   以上のことから総体主義は我々の考えているような社会性を強く持った個人主義であるといえる。もちろん社会性とは集団主義、さらには国粋主義などと結びつくものではなく、総体主義は集団主義を脅かす存在である。そしてその社会性は倫理道徳によって規定される。つまり総体主義は個人主義の大きな特徴であろう。

   しかし冷静になって考えてみると、これはプロテスタンチィズムの倫理とは少なくとも理念においてはそう大差はないのではないだろうか。プロテスタンティズムというと、ことさらカトリック(従来のキリスト教)との対比による相違点ばかりが強調されるが、プロテスタントもキリスト教であり、カルバンの説いた教えの倫理、道徳的な批判にさらされ、ハイエク・ポパーも批判した個人主義も、その根底には、プロテスタンティズムの倫理というものが生きていたはずである。

   それではなぜ、総体主義と方法論的個人主義は乖離してしまったのだろうか。それは結局、近代になって人々が個に目覚めたとき、自我を抑圧するすべてのものを追い払っていたら道徳倫理まで一緒に出て行ってしまった、ということであろう。紙くずといっしょに札まで捨ててしまったようなことである。しかし逆にいえば、ラディカルなアクションによってしか、自我、個人を確立することが不可能であった、ということにもなろう。そしてその行動が社会になる程度のインパクトを与えると、今度はより現実的な理論や実践にとって変わられるということは歴史の常識であり、実際我々は社会主義運動(ドイツ)やフェミニズムで見てきた。このことが数百年前に起こっていたのであろう。

 

   小林ゼミ 3年 081077 中沢賢太郎

  

   中世ヨーロッパにおいて、芸術はキリスト教から派生した。もともと芸術はキリスト教社会においては、文盲の人々への布教の手段であった。つまり、芸術は宗教に従属する存在であったのだ。そして、その芸術の中には宗教を正当化するための呪術的、神秘的要素が織り込まれていた。私自身は、芸術の本来持っていた性格、つまりキリスト教に従属するという一見したところネガティブな性格こそが芸術をその後、高い地位へと押し上げたのだと考える。それまでの芸術、つまり余暇から発生した芸術は、確かに高い地位にあったのかもしれないが、それは万人にとっての芸術ではなく、余暇を持つことができるだけの金持ちのためのものでしかなかった。しかし、芸術が宗教の道具、やや大げさだが隷属するようになってはじめて一般大衆のものへとなる可能性が起こった。もちろん、宗教の側は自ら誇示、正当化するために芸術を用いているのだから、まだ芸術は審美的なものであったろう。そしてその芸術(人々に宗教に付属するものとして認識された)は、宗教の腐敗とともに一人歩きをはじめたのではないだろうか。

   芸術が真に大衆のものとなる19世紀は、フランス革命による市民意識の高揚の世紀であった。従来の権威のひとつであった教会もその地位を落として行った。人々はその中でキリスト教に変わる救いを芸術の中へ求めたのではないだろうか。「神が死」んで以降、芸術はさらに新たなる表現を求めて拡大して行く。これは宗教に変わって人々の救いの欲求をいってに引き受けることとなった芸術が何とかしてそれに答えていこうとしたためであると考える。確かにその中では理解に苦しむもの、例えば音のない曲などもあるが、多くの芸術はより高い次元で、人々の悩みを代弁するものとなった。

   芸術は確かに救いの宗教と対立関係にあるかもしれない。しかしそれは芸術がもっていた「いかようにも解釈できる」という性格に着目した宗教が、芸術を神秘的なそれでいて聖なるものとして扱ったがために人々が芸術を宗教と同次元のものとしてみるようになったためであろう。

   ミイラ取りがミイラになるがごとく、芸術は宗教と同じ救いの手段となったと私自身は考えている。だから、宗教と同じく芸術も腐敗しうるものである。芸術がもはや救いではなくなった人々のいくらかが今度は新興宗教へと走っているのかもしれない。

 

   米山ゼミ 3年 17082036 小林友美

  

   大学紛争に関する解釈について

   一般に、学問的な判断としては、ヨーロッパが300年かけてやったことは日本は30年でやってしまったといわれていることから、思想の変動が激しかったことが伺える。ただし、日本人は流行に敏感でかつ流されやすいという国民性から考えれば、これはごく当然という気がする。(流行に敏感というよりも、長いものに巻かれるという日本古来のやり方なのだろう。)

   しかしこのような歴史の流れを後世代の人間がそれぞれに解釈することはどうとでもできる。流れを捕らえる上では、わかりやすいけれど当事者たちがそれぞれどう考え、どう行動していたのかのなると、また話しは別である。

   大学紛争は、元来東大医学部の学生たちが、自分たちの大学と国との汚い結びつきに耐え兼ねて、抗議したことから始まった。大学の在り方、国家の在りかたが学生たちの生理的嫌悪の領域を侵害してしまったために、抗議したのだが、それだけでは効果がないため、さらに行動に出た。他の大学は大学でそれぞれの理由を持って良くも悪くも東大を一つのきっかけとした。しかし、結局は国家権力に敗北した。

   要するに、当事者たちは、思想がどうのと考えながら行動したのではない。大学と国家の在り方に耐えられるほどの疑問を抱いたが故に、行動したのであって、空論を掲げたわけではない。だから、当事者の一人ともいうべき折原氏は誤りを見ぬいたというよりむしろ、当事者たちの生理的に許すことのできないテリトリーを犯されたということを知っていた、あるいは知ったのだ。したがって、大学側が自己の誤りを認めれば権威を喪失するという話ではなくなる。つまり、学生たちが行動をおこした時点で権威は、すでに喪失されており、国家に対する反抗が実を結ぶと考えた人は学生を含んでもごくわずかであろう。国家に対する不信感はいつの時代も消えず、国家と国民とのある生理的境界線に異常がおこったとき、当事者たちが行動に出るというのは大学闘争に限ったことではない。国家体制が転覆するときは、いつでも軍事的クーデターによることが多い。クーデターを起こしても成功しないこともある。大学闘争の結果がまさに国家権力というものの恐ろしさを示した。

   しかし、だからこそ国民はそれぞれのテリトリーを侵された場合、国民側の権力をきちんと示すべきである。(これまでもそうしてきたし、これからもそうであろう)外からとか内からとか区別してみたところで何の解決にもならない。

 

   米山ゼミ 3年 1708206 小林友美

  

   ウェーバー型、マルクス型、モラリスト型、ポパー型の応答があったが、それについで、なぜ哲学をやるのかを考える。

   哲学やるとすれば、それは自分のためだ。人間は生きていれば、様々なことにぶつかり悩む。これはモラリストに限らず、他の方もそうであり、だからこそ、それぞれの命題やテーマを掲げる。

   基本的に、哲学は学者がやるものとは限られない。人間の数(学者も含む)だけ哲学がある。それを哲学ではないとするなら、逆にどれも哲学ではないといえる。

   上に4種類の方は、それぞれ何かしらの理由によって人間の優劣あるいは区別・分類を勝手に決めている。それ以外の人間も、勝手にそうする。それは個々人の生き方を根拠にしているので、どうすることもできない。したがって、ウェーバーの「社会学の基礎概念」を呼んでも、それを自己の人生に役立てようという人もいれば、そうでない人もいる。具体的にいうと、例えば社会的行為と非社会的行為との区別を考えることで、個々人の問題を解決する手段となるか否か、つまり個々人の人生に役立つか否かは、個人によって異なるということだ。

   多くの人は、一種類のやり方で、自分の生き方を問い合わせることができる。というよりむしろ、間に合わせざるを得ないのであり、そのほうが行きやすいのである。したがって、ウェーバーのやり方を自己の人生にフィードバックする人はする、しない人はしない。すべての手段をつなげてマクロに整理し、すべてのを解明する人はいないだろう。なぜなら、そんなことをしようとすれば疲れる限界を超えてしまうからだ。

   どんな人でも「これはつかえる」「これは使えない」というように、常に取捨選択しているはずだ。その基準は、自己のそれまでの人生を根拠としているので、動かすことはできない。

   したがって、ウェーバーやマルクス等の「やり方」を使う人・使わない人がいても全く問題はない。それぞれのやり方にいちいちけちをつけても仕方ない。

   ある人はウェーバーを知ることで自分のために何かを得、またある人はポパ-を知ることで同様に(当然内容は異なるが)何かを得る。逆に、ウェーバーはくだらない、ポパ-は面白くないとする人がいても全く問題ない。

   このようなことがあるからこそ、人間には分類・区別が生じてくる。だから、ウェーバーは俗物と文化人との分類をし、文化人のほうが優れているとした。ここでウェーバーを「使う」という意味は、ウェーバーを信奉することではなく、良くも悪くもウェーバーから何かを学び取ることである。

 

   米山ゼミ 3年 17082036 小林友美

  

   科学と倫理が対立する、すなわち合理的文化人と人格的文化人とが対極にあるという話があったが、その中間に位置する人々が大半を占めており、両極にあたる人はごくわずかではないだろうか。そもそも「不合理なるが故に、われ信ぜず」というのは、誤認であろうと思い込みであろうと、本当の認識であろうとその人が「自分は知性を犠牲にしているんだ」ということを意識しているから、言えることなのだ。宗教に救いを求める多くの人々(慣習としての信仰を行なう人よりも本当に救いを求めてやまない人のほうがより当てはまるが)は、自己の「知性の犠牲」を意識しているとはいえないだろう。いわば「こうすれば幸せになれる」という神技的、マジック的な科学的に証明されにくいことを信じているのである。「知性の犠牲」を認識していない人にとっては、その宗教を信じて疑わないことが、ある種の「知性」になってしまっているのではないだろうか。このような人々は、本質的な意味において、本当の人格的文化人とはいえない。むしろ、他力本願的な側面から見れば、民衆的であろう。

   また、合理的文化人に当てはまる人は、なかなかいないだろう。合理的文化人が倫理的に鈍い人であるなら、なおさらである。なぜなら、それはほとんど機械的、無機的な人になってしまうからである。合理的文化人が知識の成長を目指すということは、彼はある種の自己成長志向なのではないだろうか。自己の死に何らの意味なく、しかし、導き出されてきた科学は生き続け、さらに次世代の他人によって科学は進歩しつづけると考えたとき、彼にとっての幸福が知識の成長に代替されたのであり、知識が成長すれば、彼は幸福だ、という解釈になる。それは、世間一般の「倫理」には鈍くとも、彼個人の「倫理」に沿っていることになる。したがって、究極的に合理的文化人足りうるには難しく、ごくごくわずかといえるだろう。

   また、人格的文化人は、啓示というカリスマ性によって、立脚点を示すが、それによって彼の思想を信ずるものがいるということは、その立脚点には、信者を説得あるいは納得されるだけのパワー(カリスマ?) があったということになる。しかし、ここではカリスマというものの本性について触れていない。私自身もまたカリスマが何であるかわからない。仮にカリスマとは、俗にいう「在りそうでなさそうなこと」によって人間の不合理な心理をついたものであると定義するならば、それは科学的な面と非科学的な面とを民衆の好みに合わせてミックスされたものと考えてしまう。カリスマというものに疑問を抱くうちは、人格的文化人の存在を信じることはできないのではないだろうか。カリスマに直面したものでなければわからないのだ。

 

   米山ゼミ 3年 17082036 小林友美

  

   Weberの「整合性」について

   授業の中でウェーバーの失敗ともいうべき整合型の合理性・非合理性、また整合合理性の研究者視点・当事者視点等の区別ができなかったという指摘から、改めてその部分(プリント)を読み返してみたが、やはりその問題について考えた。

   「当事者にとって目的合理的な行為が研究者にとって全く妥当とはいえない行為がある。例えば…」と述べている時点で、すでに当事者と研究者両者の視点が理解されているはずだ。研究者は「あの人[当人]にとっては、あの行為が○×△という理由で合理的なんだな」と認識しており、両者の視点が区別されたといえる。

   だから、ウェーバーという研究者から見て「歴史的には全く非合理的動機から生み出されて」いる場合、それはウェーバーが研究者という立場にあるときだ。しかし、その一方で「当人にとって目的合理的な行為」といっているのだから、その上で「一見すると…という事実」といっているので、ウェーバーは研究者視点と当事者視点とを理解していながら、整合合理性のある現象が実は形成時には非合理的動機によるものだと、本気で考えているのだろう。それは当事者が「この行為は目的合理的だ」と考えている場合、ウェーバーが「それは勘違いだ」といっているようなものだ。ここで「失敗」といわれているのは、例えば今と昔の価値観が異なることから、昔の価値観が今の価値観によって否定されていると言うことだろう。個人から見た合理性が現代人から見れば非合理的になってしまうという意味だが、前述のとおり、ウェーバーは片方の視点しかわかっていないのではない。

   しかし「一見…」という文章以下、それ以前までとは話が一致しない。ウェーバーの文章からは、古代ユダヤ教がなぜそうだったのかという説明が見当たらない。もし、具体的な要因があってそうであるなら、まだよいが、すべての目的合理的な現象はその生成時には非合理的だと断言してよいのだろうか。確かに歴史的流れを見れば、どんな現象でも時代によってその形を変え、動機をかえる。しかし、それを合理的か否かで区別しきれるものだろうか。ウェーバーは両者の視点を知っていながら、一つの立場でしか述べていないのか。ウェーバーの言う「非合理的な動機」とはいったい何なのか。歴史的な捉え方としては、ある現象は時代ごとの当事者にとって都合よく、形を変え、内容を変え、背景を変えてきたとしか言いようのないのではないだろうか。